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東京高等裁判所 平成6年(う)418号 判決

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

本件各控訴の趣意は、弁護人高橋裕次郎が提出した控訴趣意書及び検察官高橋邦郎作成名義の控訴趣意書に、検察官の控訴趣意に対する答弁は弁護人高橋裕次郎が提出した答弁書に、それぞれ記載のとおりであるから、これらを引用する。

弁護人の論旨は、要するに、被告人を無期懲役に処した原審の量刑は重過ぎて不当である、というのであり、検察官の論旨は、要するに、被告人を死刑に処さなかった原審の量刑は軽過ぎて不当である、というのである。

そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を加えて検討する。

第一  本件の概要

一  被告人の生い立ちと犯行に至る経緯

1  被告人は、愛知県名古屋市内で、飯場に住込みで鳶職をしていたAと、前夫との間の子供であるB、C子の二人の子供を抱えながら同じ飯場の賄婦をしてAと同棲していたD子との間の第一子として生まれた。Aは、子供らを可愛がり、特にD子との間にできた長男である被告人については欲しがるものは何でも買い与えるなど愛情をもって接したものの、被告人が出生したころから仕事を怠けるようになり、朝から酒を飲んではD子に乱暴するため、夫婦喧嘩が絶えず、Aの仕事が長続きしないため、長崎、佐賀、北海道内等のあちこちの飯場を転々としたが、その後生まれたE子とF子の二人の妹を含む一家七人は、昭和五二年四月から埼玉県行田市内の雇用促進住宅に住むようになった。被告人は、一四〇〇グラムの未熟児として生まれ、右のような環境下にあって、ほとんど躾らしい躾を受けずに成長し、昭和五三年四月に市立小学校に入学しても、幼児言葉が取れず、基礎学力に欠け、学習意欲もなかった。その上、衝動的な行動が多く、気に入らないと暴力を振るうため友人もできず、学校における共同生活には相当の困難が伴ったにもかかわらず、父母は学校の指導に対して非協力的で、学校側もその対応に苦慮した。被告人は、小学校入学後暫くすると、登校を渋りがちとなり、家庭にも落ち着かず、しばしば学校を抜け出して家出し、自転車を盗んで遠出をするなどの問題行動を起こし、昭和五四年ころから児童相談所の指導を受けたが、これによっても、盗みや家出はおさまらず、また、興奮すると家中のガラス窓を割る等のいわゆる家庭内暴力に及ぶため、学校の担任教師から教護院に入所させる話も出たが、被告人を偏愛する父親が決断するに至らず、被告人は引き続き家庭で養育された。しかし、被告人の家庭内暴力はその後更に激しさを増した上、小学校の高学年になると、二人の妹を巻き込み、同女らに万引きをさせたり、バイクを盗ませて三人で乗り回すなどの非行を繰り返し、言うことを聞かないと、その身体をロープで縛り上げて引き摺り回すなど常軌を逸した行動もみられた。

2  被告人は、昭和五九年四月、市立中学校に進学したが、そのころになっても一向に被告人の行状が安定しないため、精神異常ではないかと心配した母親が、同年六月ころ被告人を精神科医にみせたところ、諸検査の結果、知能の発達の遅れとともに、脳波のサイクルが少なく脳の働きが悪いこと、左右の脳波の出方にずれがあること、てんかん性の脳波に近い所見も見られることなどが指摘され、「精神遅滞とてんかん性精神障害の疑い」との診断を受けて、前後四か月ほど通院した。被告人は、薬を飲むのを嫌がり、治療半ばで通院をやめたが、精神科の病院へ連れて行かれたことは、父母に対する反発を更に強める結果となった。そして、この間も更に以前と同様の行動が続いたため、同年九月、被告人は児童相談所に一時保護されるに至り、被告人自身についてはもとより、父母に対しても感情に左右された場当たり的な養育の仕方を改めるよう強い指導がなされたが、被告人は、これに対しても無断外出をして指導に十分従わないばかりか、妹と一緒に通行人からひったくりをしたり、妹が言うことを聞かないとこれに激しい暴行を加えるなどの行為を繰り返したことから、昭和六〇年二月、性向改善のため教護院甲野学園に入所の措置を受けた。しかし、被告人は、隙を見て無断外出をした上、バイクを盗んで乗り回すなどの行動を繰り返し、やがて、妹らに加える暴行も一段と激しさを増したことから、その対応に苦慮した父母が、被告人一人を家に残し、二人の妹を連れて他へ転居してしまい、ときどき被告人の様子を見に行っては小遣銭を与える事態となった。被告人は、寂しさから父母と顔を合わせる都度帰宅を迫っていたが、父母の聞き入れるところとならず、腹を立てた被告人は、同年八月八日、自宅の襖に放火してこれを全焼させた。このような経過を経て、被告人は、同年九月四日、浦和家庭裁判所熊谷支部において、ぐ犯により初等少年院送致の決定を受け、乙山少年院に入院した。

3  被告人は、乙山少年院における指導により、向上心、協調性等の面でやや成長が見られたものの、なお感情の不安定さや対人不信感を克服することができないまま、昭和六一年七月二二日、家族の出迎えを受けて同少年院を仮退院し、再び父母や妹らと同居するようになったが、その直後から夜遊びを始め、家庭内暴力も一層高じる有様で、翌八月ころには、父親も対抗上布団の下に鎌を忍ばせて寝るまでの状態となった。そして、同月二六日、口論の末、父親を布団の上から縄で縛り上げた上、その顔の辺りに蚊取り線香を突っ込んで燻したり、熱湯を浸したタオルを背中に押しつけて火傷をさせるなどの行為に及び、再びぐ犯により浦和家庭裁判所熊谷支部に事件が係属することとなった。被告人は、在宅試験観察の機会を得たものの、学校にも行かず、家出をしてバイクを盗んで乗り回すなどした挙げ句、父親に殴る蹴るの暴行を加え、さらに包丁を持ち出してその腕に切りつけるなどの行為に及んだため、同年一〇月八日、同支部において、ぐ犯により、再度初等少年院送致の決定を受けて、戊原少年院に入院した。

4  被告人は、少年院における生活の上ではおおむね規律に従った行動をすることができるようになり、昭和六二年一〇月二九日、同少年院を仮退院することになったが、被告人が入院している間に、アルコール中毒で仕事もしないAを見限ったD子が家出をしたことで被告人には帰るべき家がなくなっており、引取手のない被告人は、愛知県内の更生保護会に身を寄せ、土木作業員などとして暫く働いた。昭和六三年一月、女友達を頼って埼玉県に戻った際、たまたま越谷市内に住む母親と妹の住居を知ったことから、被告人は保護会に戻る気をなくし、母親のもとで暮すようになったが、相変わらず感情は不安定で、気に入らないことがあると母親に殴る蹴るの暴行を加え、家中のガラスを叩き割ったり、家具を投げつけるなどの行為を繰り返したため、おそれをなした母親は二人の妹を連れて家を出てしまった。生活に困った被告人は、保護観察官の紹介で、同年三月から飲食店に住み込んで働くようになったが、無断欠勤も多く、三か月ほどでやめてしまい、同年六月にはC子の住込み先に押し掛け、C子に桶川市内のアパートを賃借させて同居することを迫り、仕事もしないでC子に小遣いをせびってはパチンコなどをして遊び歩き、C子にサラ金からの借金を強要する一方、気に入らないことがあるとC子に対し様々な暴行を繰り返した。C子から相談を受けた保護観察所で対応を検討した結果、保護観察による社会内指導では被告人の更生は困難との結論に至り、同年七月二五日、被告人は、浦和家庭裁判所熊谷支部において、中等少年院への戻し収容決定を受けて、丙川少年院に入院した。

5  平成元年八月二四日、同少年院を仮退院した被告人は、父母が所在不明のところから、財団法人東京保護観察協会丁原園に身を寄せ、都内の飲食店で働くこととなったが、一日でやめてしまい、四日後には丁原園も飛び出して、丙川少年院で知り合った暴力団関係者の紹介で埼玉県に行き、声をかけられて、暴力団の組員として活動するようになった。しかし、ほとんど小遣いをもらえなかったことから、金に困り、車上狙いや恐喝まがいのことをしたり、他人の金を持ち逃げしたりして生活費を稼いでいたが、平成二年五月、組員の車を無断で使用したことが発覚して組から追われる身となり、その後寝ぐら代わりに次々と自動車を盗んではこれを無免許で乗り回していたところ、人身事故を起こし、結局、窃盗(自動車盗)三件、業務上過失傷害とその際の道路交通法違反(不救護・不報告)各一件及び道路交通法違反(無免許運転)三件の各非行により、同年六月二九日、浦和家庭裁判所熊谷支部において、特別少年院送致の決定を受けて、丁原少年院に入院した。

6  被告人は、少年院の生活中、自己の問題性に目を向けることができるようになり、協調性の面でも多少の進歩のあとが見られはしたものの、社会に対する疎外感は依然として強く、他罰的傾向があって投げやりな生活態度に流れがちなところから、成人後更に三か月間の指導を続けるため、収容継続の決定を経て、平成三年一〇月一四日、同少年院を仮退院した。退院時においても、自己本位で対人不信感の強い性格については不安を残したままであった。被告人は、身元引受人がいなかったことから、東京保護観察所管内の更生保護会に身を寄せたが、二日目に無断退会し、戊田少年院で知り合った暴力団組員の紹介で長野県飯田市内の暴力団の組員となり、組事務所の電話番などをした。しかし、組に無断で遊びに行ったのを咎められたことなどから、やくざの世界に嫌気がさし、組の自動車を盗んで逃げ出し、飯田市内等で次々と自動車を盗んでは乗り回すなどの犯行を重ねた後、以前の少年院仲間を頼って神奈川県に行き、同年一二月二二日から、鳶及び土木事業を営む横浜市内の有限会社甲田組に鳶見習いとして就職し、同会社の寮で生活するようになった。被告人は、平成四年の正月休みに、埼玉県に遊びに出かけたものの、泊まるあてがなく、小学生のころ一泊させてもらったことのある暴力団の組長宅に泊めてもらおうと考え、同年一月二日、同組長宅に電話をしたところ、その妻から同組長が既に死亡していることを聞き、博徒乙野会丙山一家丁川組組長のGを紹介された。そこで、G方に電話をかけ、若衆になりたいなどと嘘を言って、同日G宅で食事をさせてもらった上、一泊した。被告人は、この際、G方が二階建てで一階ではスナックを営業していること、G夫婦は二階六畳間で寝起きしており、同所にはホーム金庫が置いてあること、Gは、金庫のダイヤルロックを使用せず鍵だけでこれを開閉していること、その鍵を六畳間の箪笥の上に置いていること、そして、たまたまGが金庫を開けた際、金庫の中に札束が入っているのを見て、同人が大金を保管していることなどを知った。翌三日、被告人は、洗車してくると偽ってGの外車を借りて乗り回していたが、タイヤがパンクしたことなどから、道路端に乗り捨て、Gには何の連絡もせずに、甲田組の寮に戻った。

7  被告人は、正月休みが終わると、平成四年一月六日から、再び甲田組において働いていたが、同年二月上旬ころから再三にわたって、寮の管理人夫婦から、組合保険に加入するため必要であるとして住民票を寮の所在地に移して提出するよう催促されるようになった。被告人は、住民票を移すと警察に住居地を知られ、飯田市内の自動車窃盗の件で捕まると考えて、適当な言い訳をして一日延ばしにしていたが、同年三月二五日夜、管理人夫婦から強く催促され、住民票は既に移してあると嘘をついてしまったところから、管理人の妻が翌日住民票を取りに行くということになり、嘘がばれては甲田組にもいられないと考え、翌二六日夜仕事が終わると、手元にあったわずか一〇〇〇円ほどの現金を持って寮を飛び出した。

8  被告人は、その後同月二八日にかけて五台の自動車を盗み、これらを乗り継ぐなどして、横浜から埼玉県に向かったが、この過程で自動車内にあった現金三万円ほどは入手したものの、さらに知人に恐喝でもさせて金銭を得ようと、同日午後、埼玉県内の二人の知人方を訪れたが、ともに不在で会うことができなかった。その間、被告人は、アパートを借りて生活できるくらいのまとまった現金が欲しいと考えるに至り、自動車窃盗では一度にまとまった金は手に入らないし、回数を重ねているといずれ失敗して警察に捕まる危険があり、もっとよい方法はないかと思案するうち、以前一泊させてもらったときに大金を保管していることを知ったG方に侵入して現金等を窃取しようと思いつき、同日夜JR熊谷駅からタクシーに乗り、午後一一時すぎころ、原判示のG方付近に着いた。そして、G方向かい側の駐車場の辺りから同人方の様子を窺ったところ、二階の窓に明かりが点いていたので、同人らが寝静まるのを待つこととしたが、盗みをしている最中に同人らが目を覚ました場合、武器を使うことになるかもしれないと考え、指紋を残さないようにするため、近くのコンビニエンスストアに行って、手袋代わりに使う靴下一足を購入した。そして、武器として使うため近くの家の前に置いてあった傘を盗んでG方付近に戻ったが、傘では役に立たないと考えてその場に捨て、二階の窓に明かりが消えるまで、暫く前記駐車場付近で待機することとした。そうして、犯行の手順についてあれこれ考えているうち、盗みに入ってGに気付かれた場合、相手も暴力団の組長であるからには拳銃の一丁くらいは持ち出してくるのではないかと不安になり、その抵抗を排して確実に金を奪い取るためには木刀か鉄パイプのような兇器がいると考え、適当な侵入口を求めてドアや窓の施錠の有無を確かめながらG方の周辺を探したところ、同人方西側の駐車場に捨てられていたハブナットレンチ一丁(当庁平成六年押第一六一号の8)と草刈鎌一丁(同押号の7)を発見してこれらを手にするとともに、付近にあった石一個(同押号の9)を拾ってズボンのポケットに入れた。

二  犯行の状況

1  やがて二階の電気が消えるのを見届けた被告人は、さらにGらが寝静まるだけの時間をおいた上、両手に靴下をはめてG方の裏側に回り、平成四年三月二九日午前一時ころ、G方一階南側にある風呂場のガラス窓を石を投げつけて割り、同人らがガラスの割れる音によっても起き出してこないことを確認した後、窓の鍵を外し、前記ハブナットレンチと草刈鎌を携えて同人方に侵入した。

2  一階スナックに入った被告人は、逃走し易いようあらかじめ出入口の鍵を開けた後、まずレジスターから金銭を奪おうとしてカウンターの中の調理場に入った。そして、レジスターを物色して現金が入っていないのを見た後、冷蔵庫の明かりで調理場の流しの上に包丁が二丁(同押号の2、3)あるのを見つけ、Gが抵抗してきたらこの包丁で刺してやろうなどと考え、ハブナットレンチと草刈鎌を置いて代わりに右包丁二丁を持ち、暫く一階店内から二階の様子を窺ったが、依然としてGらが起き出してくる気配がないため、左右の手に包丁を一丁ずつ持ち、足音を忍ばせて二階へ向かった。二階に上がって、台所と八畳間を通り、六畳間の襖の前に至り、一丁の包丁を右手に逆手に持ち、他の一丁は右腰部のベルトとズボンの間に差して態勢を整えた上、左手でそっと襖を開けてみると、Gとその内縁の妻H子が、Gが手前側の状態で静かな寝息を立てて就寝中であるのが見えた。被告人は、暫くGの寝顔を見るうち、金庫の鍵はGらの頭の方にある箪笥の上に置いてあるので、これを取るにはGらを跨がなければならず、その際両名に気付かれれば逃げ道がないし、Gは拳銃などを持ち出してくるかも知れず、女の人が大声を出すかもしれない、今なら簡単に二人を殺せる、ここまで来た以上は、二人を殺して金を取るほかないと考えるに至った。

3  強盗殺人を決意した被告人は、立ったままGの掛け布団を剥ぎ、右手に逆手の状態で持った包丁で同人の心臓の辺りを突き刺したが、すぐに死ぬと思ったGが目を見開いて上体を起こしてきたため狼狽し、Gの顔の辺りを同人がぐったりするまで何回も突き刺した。すると、その気配で目を覚ましたH子が、被告人に対し大声で「何やってんのよ。やめなさい。殺すんなら私を殺しなさい。」などと叫んで上体を起こして被告人の右手にしがみついてきたため、今後はH子に向かい、その背中や首筋辺りを夢中で何回も突き刺した。その後、まだウーッと声を上げているGに向かい、更に顔の辺りを数回突き刺したが、途中で包丁の刃先が折れているのに気付き、それを投げ捨てて他の包丁に持ち替えた上、更にGとH子の上半身などをそれぞれ何回も突き刺した。そして、二人が全く動かなくなったのを見て、やっと突き刺すのをやめた。その後、被告人は二人の頭の側にある箪笥の上から鍵束を取り、そのうちの一つを使ってホーム金庫の鍵を開けたが、Gが今にも起き上がってくるのではないかとの恐怖心もあり、現金及び中に現金が入っていると思われるバッグ二個(G所有の現金約三五〇万円及び外国紙幣在中のセカンドバッグ一個並びに預金通帳、小切手及び印鑑等在中のセカンドバッグ一個)を手にすると、他の書類等には目もくれず、これらを抱えるようにして早足で階段を降り、同日午前一時三〇分ころ、一階スナック出入口から逃走した。Gは、顔面及び頚部に九個の刺切創等、左前胸部に二個の刺切創等、右肩部及び背部などに六個の刺切創等を負い、左側胸部の胸部大動脈切截を伴う刺創により失血死、H子は、頚部から右顔面部にかけて一五個以上の刺切創、左肩部及び背部などに六個の刺切創等を負い、右肩上端の右鎖骨下動脈切断を伴う刺創を主とする刺切創群により失血死した。

三  犯行後の状況

1  被告人は、約五〇〇メートル走った辺りで秩父鉄道の線路に差し掛かり、付近に鉄橋があるのを見つけ、鉄橋の上なら人に見られないし、盗品を川の中に捨てて安全に処分できると考えて線路伝いに鉄橋の上に行った。そして、同所でバッグの中身を確認したところ、一方のバッグには、現金の束と外国紙幣、小切手様のもののほか、書類等が入っており、他方のバッグには書類のようなものしか入っていなかった。そこで、バッグ一個と現金、外国紙幣以外はすべて鉄橋から川の中に投棄し、途中ホテルで休憩した後、血の付いた衣類とともに外国紙幣も焼却炉に捨てて、JR熊谷駅から電車に乗り、逃走した。

2  被告人は、同日午後八時ころ、横浜市内にあるソープランドを訪れ、応対した同店の従業員であるI子(当時三五歳)と意気投合し、同日から同年五月一〇日にかけて合計二二回にわたりI子のもとへ通いつめ、その間年上のI子を母親のように慕う気持ちもあって同女に同棲を迫ったり、ウィークリーマンションを借りてもらったりしたこともあったが、母親と子供を抱えるI子には同棲する気などなく、「若い子を見つけた方がいい。」などとあしらわれていた。被告人は、このようにしてソープランドの入浴料等として一〇〇万円以上遣ったほか、飲食代金や衣類、貴金属の購入等に多額の出費を重ねていたが、その一方で、同年四月一九日には駐車中のタクシーを盗んで付近を乗り回した上車内に置いてあった現金を奪い、以後同年五月五日にかけて合計一三件に及ぶ同様の自動車窃盗を敢行した。

3  警察では、自動車窃盗の容疑で被告人に対する逮捕状を取り、その行方を追っていたが、同月一二日、横浜市内で被告人を逮捕した。身柄を飯田警察署に移された被告人は、同月一三日、「大きな山をふんだ。」などと口走ったが、その後も、取調べの都度、「別件逮捕されることもあるのか、行田警察へ行きたい、まずいことをやっている、三人殺した、人生終わりだ、二〇年も三〇年も刑務所に入らなくてはいけない、線香を上げさせてほしいと頼めば今からでも線香を用意してくれますか、死刑になる前に会いたい人がいる。」というような話を断片的に繰り返し、逮捕事実である窃盗の件よりもこれらの話題に終始することが多く、椅子にじっとしていられない様子で、頭が破裂しそうな絵や絞首刑の絵を描いたりしていた。その後、被告人は、飯田簡易裁判所に起訴され、同年八月六日、懲役一〇月の判決を受けて服役していたが、翌平成五年二月三日、本件により通常逮捕され、身柄を行田警察署に移された。被告人は、逮捕当初、「身に覚えがない。」として犯行を否認していたが、同月五日に至り、捜査官が本件当日の行動について追及していたところ、被告人は、俯きながら顔をくしゃくしゃにし、涙を流し鼻水を出しながら、「絶対に自白しない。やったけど自白しない。証拠を突きつけられても自白しない。話せば家族に会えなくなってしまう。僕だって苦しい。死んだ方がましだ。僕はもう終わりだ。」なとど述べた。その後同月八日の取調べ終了間際に「やりましたけど、詳しいことはあとで話します。」と述べたものの、翌九日には「昨日考えたが、信念を通す。やっていないことはやっていない。」として否認の態度に戻った。そして、同月一一日、取調官から「どうすれば心を開いてくれるか。この辺でお互いに心を通じさせてもいいのではないか。」などと説得を受けていたところ、目を大きく見開き、「僕がGさんを殺したんです。正直に話します。僕のことをまかせます。」、「本当に申し訳ないことをしたと反省しています。事件に関係ないと強がりを言ってきましたが、内心では調べの都度、心の中が苦しく、心休まる日はありませんでした。一日も早く事件のことを話し、私自身心が休まりたい気持ちです。」などと堰を切ったように述べ、ついに本件犯行を全面的に自白するに至った。

第二  弁護人の論旨について

所論は、(1)被告人は、家庭において十分な躾教育を受けず、少年院においても矯正教育の成果が上がらないまま社会に復帰させられたのであり、人格未熟で犯行時二〇歳七か月にすぎない被告人が行為規範を十分身につけていたとはいえない、その被告人が暴力団の生活に嫌気がさし、犯行の数日前まで真面目に働くことによって、自ら更生しようとの意欲を示しており、原審公判廷において更生の決意を述べていることをも考え併せれば、被告人の改善更生の可能性は低くない、(2)被告人が、犯行後、友人に本件を打ち明けたり、別件を相当する捜査官に対し本件を仄めかすような言動をしたのは、良心の呵責ゆえであり、本件についても正直に全面的に自白しており、罪を償って出てきたら死んでも悪いことはしないと反省の弁を述べているなどの点を考慮すると、原審の無期懲役の刑は重きに失する、という。

しかしながら、本件は、前記のとおり、幼いころから非行や家庭内暴力を繰り返し、都合四回にわたる長期間の少年院生活を送ってきた被告人が、自動車窃盗についての警察の追及をおそれ、わずかの所持金を持っただけで住込み稼働先を飛び出し、生きていくための資金を得ようと企て、以前泊めてもらった際、多額の現金を有していることを知った被害者宅に侵入してその現金等を盗もうと考え、付近で待機中、強盗へと犯意を高めて被害者宅に侵入した後、更に強盗殺人へとその犯意を飛躍させ、就寝中の被害者二名を殺害し、現金約三五〇万円を強取したという事案であり、極めて身勝手かつ自己中心的な犯行であって、その動機に酌量の余地はない。また、犯行の態様についてみても、被告人は、熟睡中で全く無抵抗の被害者らに対し、その身体の枢要部を多数回にわたって突き刺し、包丁が折れるや、もう一丁の包丁に持ち替えて更に両名の息の根が止まるまで多数回突き刺すなど、その犯行態様は誠に執拗にして残虐かつ冷酷というほかはない。そして、本件の結果は、被害者二名の尊い命を奪ったという重大なものであり、強取金額も多額である。被害者らに落度は全くなく、一面識もなかった被告人を自宅に泊めて食事を振る舞うなどしたことが本件を招く結果になったものであって、被害者ら及びその遺族の無念の情は察するに余りある。しかるに、被告人は、被害者らの遺族に対し、何らの慰謝の措置も講じておらず、被害者の遺族も極刑を望んでいる。また、本件犯行が地域住民に与えた不安と恐怖、さらには一般社会に与えた衝撃も大きく、これらの諸事情を考慮すると、被告人の刑事責任は極めて重大である。

そうすると、所論指摘の事情を十分に考慮してみても、被告人を無期懲役に処した原判決の量刑が重過ぎるとは到底認められない。論旨は理由がない。

第三  検察官の論旨について

所論は、原判決は、本件の情状について的確な検討を加えないまま、形式的、皮相的視点で被告人に酌量すべき有利な情状があると過大、不当な評価をし、その結果無期懲役刑を選択したもので、その量刑は著しく軽きに失して不当であるとして、九点にわたってその理由を指摘するので、以下、所論に即して順次検討する。

一  「本件犯行の動機に酌量すべき余地は全くない」旨の所論について

所論は、本件犯行に至った経緯や被告人の盗癖に照らすと、本件犯行には他人を犠牲にすることを意に介さない被告人の本性に根ざした抜き難い自己中心的人格が発現しており、金員に窮するや、以前親切に世話をしてもらったことのある被害者らを何の躊躇もなく殺害して金品を強取した本件犯行は、人倫にもとる身勝手で自己中心的なもので、その動機には一片の酌量の余地も見出せない、という。

そこで検討するに、本件犯行に至る経緯と犯行の状況は前記第一の一及び二で認定したとおりであり、これによれば、本件犯行の動機については、所論のとおりの見方が可能であって、全く酌量の余地はない。そして、この点に関しては、原判決も「量刑の理由」において、「被告人は、何ら生活のあてもないのに、僅かの所持金のみを持って住込み稼働先を飛び出し、生活費に窮するや、短絡的に侵入盗を思いつき、さらには金銭取得を確実にするため、熟睡中の被害者二名を殺害しようと考え、それを実行に移したものであり、その動機は、極めて自己中心的で、余りにも身勝手というべきであって、その動機に酌量の余地はない。」と説示しており、同様の見解に立っていると見受けられる。

二  「本件は、強固な確定的殺意に基づく犯行であり、かつ、殺害の態様も極めて執拗、残忍かつ冷酷である」旨の所論について

所論は、被告人が被害者両名に対する殺意を抱いたのは、兇器の包丁を発見したときであり、仮にその後二階に上がって就寝中の被害者らを見たときに殺意が発生したものであるとしても、殺意の成立に偶然性を認める余地はなく、また、被告人は人体の枢要部を狙って包丁による滅多刺しを情け容赦なく繰り返しており、犯行は執拗にして残虐かつ冷酷極まりないもので、人間性を喪失した鬼畜の所業というべく、犯行態様の点においても偶然性などは認め難いにもかかわらず、原判決が、被告人に殺意が発生したのは二階で就寝中の被害者らを見た後であるとした上、殺意の成立及び犯行態様に偶然性が認められるとしたのは不当である、という。

所論が指摘するとおり、原判決は、殺意の発生時期については、その「罪となるべき事実」において、「就寝中のG、H子の両名を見た際」としている。そして、これを前提にした上で、「量刑の理由」中において、「強固たる殺意に基づいて、全く無抵抗の被害者Gに対して、その身体の枢要部である胸部を狙い思い切り包丁で突き刺したほか、被害者両名に対し二丁の包丁の刃が折れるまで多数回にわたり刺して殺害するなど、その態様は執拗にして残虐というほかはない。」と被告人を厳しく指弾する一方、被告人に有利な事情の一つとして、「本件犯行は、当初は窃盗の犯意を有していたにすぎず、順次強盗、強盗殺人へとその犯意をエスカレートさせていったものであって、当初から殺意を有していたわけではなく、その限りにおいては、殺意の成立及び犯行態様にいささかの偶然性を認める余地がないではない。」と指摘している。

そこで、関係証拠を検討するに、殺意の発生時期に関し、被告人は、本件に関する詳細な自白をした平成五年二月一一日、司法警察員に対する供述調書においては、「二本の包丁を見つけたとき、二階に上がって被害者夫婦が寝ていれば、この包丁で二人を殺して現金を盗んでやろうと思った。」旨供述したが、同日の検察官に対する供述調書においては、「二本の包丁を見つけて両手に持ったとき、被害者らが起きてきたらこの包丁を使って刺してやろうというくらいの気持ちはありました。その後二階に上がって被害者らの寝ているのをしばらく立って見ているうち、金を探している途中でGが目を覚ましたら金を取れないと思い、金庫から金を取るには二人を殺すしかないと思った。」旨供述した。そして、司法警察員に対する同月一三日付け供述調書において前記一一日付け司法警察員に対する供述調書と同旨の供述をした後、同月一五日付け供述調書においては、「包丁を見つけたとき、これを使って金を脅し取ってやろう、場合によっては二人を刺してやろうという気になった。二階に上り、寝ている二人を見ているうち、もし二人が目を覚せば金が取れないし、顔を見られては捕まってしまう、格闘にでもなれば勝つとは限らないなどと考えると、どうしても二人を殺さなければ金は奪えないので、二人を包丁で刺し殺す決心をした。」旨供述し、検察官に対する同月一九日付供述調書においては、「包丁を見つけたとき、被害者らが目を覚まして抵抗してくるなど最悪の場合には、被害者らをこの包丁で刺して殺してでも金を取ってやろうと思った。できれば被害者らが寝ている間に黙って金を持って行きたいが、起き上がったら被害者らを刺して殺すしかないと思った。最悪の場合には殺してもかまわないと決意して二階に向かった。六畳間の襖を開けて、しばらくGの寝顔を見ていたが、箪笥の上にあるはずの金庫の鍵を取るには、Gらを跨がねばならず、Gらが目を覚ませばピストル等を持ち出したりして抵抗してくるのではないかという気持ちがどんどん強くなり、こうなったら二人とも殺さなければ金は取れないと思い、最後の決心をした。」旨供述し、同月二四日付供述調書でもほぼ同趣旨の供述をし、原審公判においては、「一階にいる時点で、最悪の時は被害者らを殺すようになるかもしれないと思ったが、そのようにはあまり考えたくはなかった。Gが起き出してきて揉み合いになったら殺してしまうということも考えたかもしれないが、決断はつかなかった。二階に上がって二人を見たとき、二人を跨いで奥の金庫の所まで行き、鍵の音でGに見つかったら逃げ道を塞がれてしまうし、戦いになったら怖いという恐怖心で、動いていないときに殺した方がよいと思った。」旨供述している。以上の供述経過及びその内容、とりわけ、捜査段階における供述だけをみても、一階調理場で包丁を発見した時点において未必の殺意を抱いたと一貫して供述しているわけではないことや、被告人が就寝中の被害者らを認めた際、直ちに襲いかかったわけではなく、わずかの時間とはいえ、その場で金庫から金を奪う方法を具体的に思いめぐらし、被害者らに気付かれないようにして金を取ることはできないと考えていることなどに徴すると、包丁を発見した時点において、最悪の場合には被害者らを殺害することになるかもしれないと考えたとしても、できればそうしたくはないという気持ちも窺われ、未必の殺意といえるほどには意思が固まっていなかった疑いが残るといわざるを得ない。そうすると、一階調理場で包丁を発見した段階においては、未必的なものにせよいまだ殺意を抱いていたとは認定できないのであって、この点に関する原判決の認定に誤りがあるとはいえない。原判決が殺意の成立につき「偶然性」という文言を用いたのは必ずしも適切とは思われないが、原判決は、前記のとおり、本件犯行が窃盗、強盗、強盗殺人へと犯意をエスカレートさせていったもので、当初から殺意を有していたわけではないと指摘した上、「その限りにおいては」殺意の成立にいささかの偶然性を認める余地がないではないとしているのであって、その趣旨は、本件があらかじめ強盗殺人を計画した上での犯行ではなく、殺意の成立については、犯意が順次エスカレートしてきたことに留意すべきであるとしたものと解され、そうであれば、原判決の右説示に誤りはないということができる。

次に、原判決が犯行態様に偶然性が認められるとしている点について検討するに、所論は、原判決が被告人が狙いも定めずに被害者らを突き刺していると考えた上で、この点に偶然性が認められるとしたものであるならば承服し難い、という。しかしながら、原判決は、前記のとおりの指摘をした上で、「その限りにおいては」犯行態様にいささかの偶然性を認める余地がないではないとしているのであって、その趣旨は、本件においては、犯意自体が順次エスカレートしており、当然のことながら、犯行態様についても具体的にその手順方法が前もって決められていたわけではないことに留意すべきであるとしているにとどまり、実際に被害者らを突き刺した時点で被告人が狙いを定めていたかどうかという点までを考えた上での説示とは認められないから、所論は当たっていないように思われる。

三  「本件犯行は、全く落度のない被害者二名の尊い命を一瞬のうちに奪い、多額の現金等を強取したもので、その結果は極めて重大である」旨の所論について

所論は、二名の尊い命が一瞬にして奪われ、併せて多額の現金等が奪われた結果の重大性は、最も悪質な量刑事情として、厳粛に評価されなければならない、という。

本件の結果の重大性は所論のとおりであり、原判決も、その「量刑の理由」において、「本件の結果は、被害者二名の尊い命を奪ったという重大なものであり、強取金額も多額であるところ、被害者らに落度は全くなく、以前一面識もなかった被告人を、自宅に泊めて食事を振る舞うなどしてあげたことが、被告人との唯一の関わりであって、その親切な行為が本件を招く結果になったものであり、被害者ら及びその遺族の無念の情は察するに余りあるものがある。」と説示しているのであって、所論指摘の事情を厳粛に評価しているものと見受けられる。

四  「被告人は、被害者らの遺族らに対して何ら慰謝の措置も講じておらず、遺族らは極刑を希望している」旨の所論について

所論は、被害者の遺族らが被告人の極刑を望んでいることを指摘し、原判決はこのような遺族らの被害感情を真に理解していない疑いがある、という。

関係証拠を検討すると、Gの長男であるJ及びH子の姉K子らが、被告人を憎み、被告人の極刑を望んでいることが認められる。特にJは、当審公判廷においても、その死に様から窺われる被害者両名の無念さを述べた上、原審公判廷における被告人のふてぶてしい態度や、被害者らの三回忌も過ぎるのに遺族らに対して謝罪の手紙一つ出そうとしない態度からも、全く反省の色が窺われないとし、被告人に対しては強く極刑を望む旨あらためて供述しているのである。そうすると、被告人が、当審公判廷で、手紙では軽く思われるし、文章がうまく書けないので出さなかった、いずれ社会に出たら金を持ってお詫びに行くなど具体的な行動で示したい旨供述している点を考慮しても、遺族の被害感情の宥和に向けての努力という観点からみた被告人の情状は極めて悪く、そのためもあって遺族が極刑を望んでいるという点は、本件における被告人の量刑をするに当たって重要な事情として考慮しなければならない。しかしながら、原判決も、この点については、「被告人は、被害者らの遺族に対し、何ら慰謝の措置を講じておらず、被害者らの遺族らの精神的苦痛を考えれば、その遺族らが極刑を望むのも無理からぬところである。」としているのであって、所論指摘の事情を量刑事情として考慮していることは明らかである。

五  「本件の社会的影響は重大である」旨の所論について

本件は、前記第一において認定したような凶悪重大事犯であって、しかも犯人が容易に逮捕されず、付近住民を不安と恐怖に陥れたものであることは、所論指摘のとおりであるが、原判決も、「本件犯行が地域住民に与えた不安と恐怖、さらには一般社会に与えた衝撃も大なるものがある。」と判示しており、この点も量刑事情として考慮していることは明らかである。

六  「犯行後の被告人の行動、心情にも一片の良心の呵責すら見出すことはできない」旨の所論について

所論は、被告人は本件犯行後においても、強取した金銭を使い果たす前から自動車窃盗などの窃盗行為を繰り返し、平成四年五月一二日に逮捕されるまでに一三件にも及ぶ窃盗罪を犯しており、今後も金に困ったら強盗をするつもりである旨原審公判廷で公言する有様で、良心の呵責や改悛の情は見出せないのに、原判決がこの点を全く考慮することなく量刑判断をしているのは失当である、という。

本件犯行後の被告人の行動は、前記第一の三で認定したとおりであって、所論指摘の事実が認められ、また、原審公判廷において、被告人は、警察に追われている間も金に困ったら強盗をするつもりであった旨供述をしていることが認められる。これらの点からすれば、本件犯行後の被告人の行動に同情の余地はなく、被告人には良心の呵責や改悛の情が乏しいととられても仕方がないであろう。しかしながら、後記八の(2)の点についてみるところを考慮すると、所論指摘の点だけから良心の呵責や改悛の情は見出せないというのは、やや断定的であるといわざるを得ない。原判決の「量刑の理由」は、所論の点に直接触れてはいないけれども、その点を全く考慮していないとはいえない。

七  「被告人の生育歴には、特段酌量すべきほどの不遇な点はない」旨の所論について

所論は、原判決が、被告人に有利な情状の一つとして、生育歴に不遇な点があったとしている部分につき、被告人の場合、その生育歴に正常な人格形成及び行為規範の獲得の機会を奪ってしまうほどの不遇性は認め難い上、長期にわたる矯正処遇により自らの行為の是非善悪を判断する行為規範を身につける機会に十分恵まれており、本件犯行は被告人が不遇な生育歴を有していることとは何ら因果関係はないのであるから、この点を安易に酌量すべき事情の一つとした原判決は失当である、という。

関係証拠によると、被告人は、何回も知能検査を受けており、知能指数の最低値は七九、平成二年六月ころには最高値の九〇を示し、知能はやや劣るがなお中の下程度で、社会生活を営む上において困難があるとは認められず、また前記第一の一2でみたとおり、中学一年生のころ、「精神遅滞とてんかん性精神障害の疑い」との診断を受けたことがあるほかは、特段の精神障害の存在を指摘されてはいない。しかしながら、その生育歴についてみると、前記第一の一で詳しくみたとおり、被告人は、父親Aにとっての長男ということで幼いころから他の同胞とは区別して偏りのある愛情を受けたが、同人は、被告人の生まれたころから仕事を怠けて朝から酒を飲むようになっていた上、気に入らないと感情的になって妻子に当たり散らすだけで、普通の父親がするであろう躾などはできなかった。他方、母親のD子も、このような夫を抱えて生活に追われ、被告人の下に更に二人の妹が生まれたこともあって、子供らの指導教育までには手が回らない状態が続いた。被告人は、この間適切な躾も受けないまま小学校に入学したため、学校生活について行けず、低学年のころから学校をさぼって非行を行う生活が繰り返され、やがて家庭内暴力も激しくなり、これにおそれをなした両親が被告人一人を残して家を出て行くなど監護を放棄する事態ともなり、ついには昭和六二年ころ夫の行状から将来を見限った母親が被告人の妹らを連れて家出をすることで家庭が崩壊し、以来少年院を出た被告人を迎えてくれる家庭はないという事態となったのである。このような生育過程を経て、被告人には、根強い対人不信感と生きていくためには人の迷惑などかまっていられないという自分本位の考え方に、自分のような人間は死んだ方がましだとの捨て鉢な気持ちの混在する著しく偏った性格が形成され、幼児性を残したまま、社会に対する適応力を得られずに成長したとみることができる。もとより、両親が被告人の監護を放棄するに至った点については、被告人の家庭内暴力に大きな原因があるのであるが、これを、所論のように単に被告人固有の粗暴性という観点からのみ説明するのは十分でなく、その背景には、暖かい家庭に対する強い憧れからくる家族に対する葛藤があったことは推察できるのである(例えば、本件で逮捕された平成五年二月三日当日における取調状況についての報告書には、被告人が取調官に対し、「おれだって立ち直ろうと思った時期があったんだ。家族が全員いて、家に帰れば暖かいご飯と味噌汁のある家庭だったら。」と語気強く申し立てた旨の記載がある。)。また、被告人が長期にわたる矯正処遇により自らの行為の是非善悪を判断する規範を身につける機会に十分恵まれてきたことは、所論のとおりであり、これに応えられなかったのはほとんど全部被告人の更生意欲の欠如に帰せしめられるべきであるが、被告人の持って生まれた資質の乏しさや、二度目の少年院を退院するころから被告人を迎えてくれる人がいなくなっていたという右の家庭環境も考えると(例えば、戊原少年院の成績経過記録表には「父母ともに所在不明で帰住先が決まらないということが原因で、自制心を欠いた面が見られ、生活を崩した。」との記載があり、甲田少年院長の収容継続決定申請書には「帰住先が未定であることから出院が遅れるだろうと勝手に予測し、精一杯やる必要はなく、あくまでマイペースでよいといった強がりを見せている。」との記載がある。)、矯正の効果が上がらなかったことの理由を全面的に被告人に帰せしめることはできないであろう。このようにみてくると、物心がついてからの被告人には、普通の家庭にみられるような生活の経験がほとんどなかったといってよく、被告人の生育歴は、所論のいうように、正常な人格形成及び行為規範の獲得の機会を奪ってしまうほど不遇であったとはいえないまでも、やはり不遇であったというべきであって、この点が犯行時二〇歳七か月といまだ若年であった被告人の性格、行動傾向に影響していないと即断することはできないと考えられる。原判決が被告人に有利な事情の一つとして生育歴の不遇性を指摘したのも、こうした観点からであると考えられ、これが量刑要素として酌むべきでない事情を取り上げた不当なものであるとは認められない。

八  「被告人には更生の可能性は全くない」旨の所論について

所論は、原判決が「被告人に更生の可能性が全くなく極刑をもって臨むほかないとするには、いささか躊躇を感じさせるものがある。」とした点について、(1)被告人の犯行前後の行動をみても、暴力団をやめたのは自分勝手な理由からであり、また真面目に働いたといってもその期間はわずか三か月程度のもので、それを除けば被告人は無為徒食のまま窃盗によって生活をしていたのであり、その生活ぶりからは更生意欲や社会適応能力を見出すことはできない、(2)被告人が本件犯行を友人らに打ち明けたり、捜査官に仄めかしたりしたのは、自己の勇敢さを誇示し、捜査官を揶揄するためであって、犯行に対する改悛の情からではないし、捜査段階で被告人が自白したといっても、殺意に関する供述はその後公判において自己に有利な方向に翻しており、また被告人質問において強取金がなくなれば再び強盗をしようと考えていた旨述べたり、刑務官に対して「判決は死刑ですか。控訴するつもりはありません。その場でけりをつけます。裁判長をぶん殴ってやります。」などと不当な発言をし、さらに面会に来た母親に対し、「人殺しちゃった。完璧だったんだけどな。」などと話していることに徴すると、被告人が全面的に自白し、犯罪を真摯に反省悔悟しているとはいえない、(3)被告人は若年であるといっても、教育不足から社会人としての行為規範を身につける機会のないまま未熟な人格に基づき短絡的に凶行に及んだというものではない上、被告人には矯正教育を受けようとの姿勢が欠けており、更生の意欲も全く認められず、その非人間性及び反社会性は既に改善し得ない程度にまで達しており、結局、被告人には更生の可能性は全くないのであるから、原判決の認定、判断は不当である、という。

そこで検討するに、まず(1)の点であるが、被告人は最後に戊田少年院を出院した後も、保護観察にも服さず、少年院で知り合った友人を頼って暴力団に身を置いており、これらの点からは、所論のような見方をされても仕方がないと考えられる。しかし、その後被告人は暴力団から離れ、本件犯行直前まで甲田組に就職して働くのであるが、所論指摘のようにその稼働期間はわずか三か月に終わったものの、寮を飛び出した理由は、前記第一の一7で認定したように、自業自得とはいえ、住民票を移すことができない事情があったにもかかわらず、移したと嘘をついてしまったことによるものであり、この間の稼働状態は、経営者のLによれば、一人前の鳶職人になりたいと言って休日でも仕事に出ており、いつも仕事は真面目で、皆と仲良く話して和気藹々と仕事をしていた、一生懸命働いていたことは間違いなく、人間的に見る限り悪い男という感じがしなかった、というのである。その他、被告人が、給料のうちから相当額を回し、寮の自室にテレビ、冷蔵庫、ガスレンジ、掃除機など生活用品を買い整えていることに徴しても、被告人が一日も早く手に職を身につけて自分なりの生活を築き上げようと努力していたことは明らかで、これを少年時代の被告人の生活ぶりと比較すれば、相当の成長のあとをみることができるのであって、犯行直前の被告人は、勤労の意欲を持ちはじめていたとみるのが、素直な見方というべきであろう。

次に、(2)の点についてみるに、被告人が犯行を打ち明け、或いは仄めかした際、これを聞いた友人や捜査官らが、自慢話をするもの或いは捜査官を揶揄するものととれる言動をしていることは、所論指摘のとおりである。しかし、これらの言動は、自己に不利益となる可能性のあることも事実であって、良心の呵責が全くなければしないであろうということはできる(被告人は、本件犯行をMに打ち明けた理由については、「被害者を殺したことを毎日悩んでおり、警察がいつ逮捕に来るか心配していたので、このことを誰かに話さずにいられなかった。親友に話すことにより、少しでも気晴らしになると思った。」旨供述している(被告人の司法警察員に対する平成五年二月一七日付け供述調書。なお、同様のことは検察官に対する同月二四日付け供述調書においても述べている。))。また、所論指摘の捜査官、刑務官や面会時の母親に対する言動等は、被告人のいまだに残っている幼児性や、少年時代に培われた根強い劣等感、被害感が裏返しの形で他人に対する強がりとなって現われているのではないかとも考えられる。さらに、被告人が自白した際の状況は、前記第一の三3でみたとおりであり、捜査官に対しては、全面的に自白し、公判においては、殺意の発生時期について自己に有利な方向に若干修正しているが、この点を除けば自白を維持している。また、被告人は、起訴直前の段階において取調官に対し、「被害者らには本当に申し訳ないことをした。被害者らが天国に行けるようにずっと手を合わせて生きていこうと思う。家族に会えたら、昔の僕じゃなくて今では人間としての心を取り戻していることを話したい。これからは二度と同じ過ちを犯さないようにする。」と供述し、また、原審公判において、「本件については何とばかなことをしたかと思い反省している、罪を償って出てきたら死んでも悪いことはしない、悪いところを直して社会に出たら人に迷惑をかけないようにやっていきたい。」と一応反省の言葉を述べている。このようにみてくると、被告人に反省悔悟の気持ちが全くないとするのも相当ではない。

最後に(3)の点についてみるに、被告人の少年時代における矯正教育の期間は四年三か月余りと長いにもかかわらず、最終的に戊田少年院を出院する段階においてもなお十分な矯正効果が上がらず、いまだ人格が未熟で年齢相応の社会性が得られない状態で社会に戻される結果となった。被告人はこれまで保護会にも落ち着かず、原審公判廷及び当審公判廷において、国の世話にはなりたくないなどと公言しているところであるが、これらも、被告人の人格が未熟で社会性が得られていないことの現われといえないこともない。また、四回にわたる少年院収容処分のうち前の三回は主として家庭内暴力によるものであり、矯正教育の効果が上がらなかった点については、前記七のような見方も可能である。その他右(1)(2)の点について述べたところを併せ考えれば、所論のいうように、被告人の非人間性及び反社会性が既に改善し得ない程度に達していて矯正教育が不可能で更生の可能性も全くないと断定するには、なお疑いが残るというべきである。

九  「本件犯行は、他の同種事犯と比較しても、その犯情は特に悪質であって、極刑選択が真にやむを得ないと認められる事件である」旨の所論について

所論は、最高裁判所昭和五八年七月八日第二小法廷判決(いわゆる永山事件第一次上告審判決)以後いずれかの審級で言い渡された、被害者二名を殺害し、検察官が死刑を求刑した事件の判決結果について調査したところ、被害者二名を殺害した強盗殺人事件は二〇件二三名に及ぶが、そのうち二一名について死刑を言い渡されている(控訴趣意資料1の番号3、4、6ないし9、11ないし25)。これらの事案と比較しても、本件における被告人の犯情は特に悪質であって、一般予防の見地からしても極刑以外考えられない、という。

そこで、所論の掲げる事案について、本件との差異を検討してみる。もとより個々の事案の比較は、諸般の事情を総合的に評価しなければならないので、大まかな比較とならざるを得ないが、概略、次のようなことはいえるであろう。

まず、所論指摘の二〇件のうち、番号4、7、11、13、14、17、19、22、25の九件は、本件と同じく二名の被害者が殺害された強盗殺人事件ではあっても、本件のように同一の機会に二名の被害者が殺害された場合ではなく、被害者一名ずつについて、全く機会を異にし、新たな動機に基づいて強盗殺人を反復した事案である。

次に、その余の事件についてみるに、番号3、6、18の事案は、強盗殺人を犯した後、犯跡隠蔽のため現場の建物に放火している。番号8の事案は、被害者方に侵入する前に、共犯者間で顔見知りの被害者に気付かれたら両名を殺害するとの意思を通じた上で、兇器の一部を携えて犯行に及んだものである。番号9の事案は、被告人が殺人罪により無期懲役に処せられその仮出獄中の犯行である。番号12は、もともと被害者四名の殺害を企図した強盗殺人の事案で、結果として被害者二名を殺害した強盗殺人罪のほかに、他の二名に対する強盗殺人未遂罪がある。番号15の事案は、被害者両名の殺害を含めて周到に計画された事件であり、兇器を携えて犯行に及び、死体の遺棄もしている。番号16の事案は、被害者方に赴く前に被害者両名を殺害する決意を固めた上で、兇器を携行して犯行に及び、再度被害者方に侵入してその死体などから所持品を窃取したものである。番号20、21の事案は、兇器として拳銃を使用し、或いは拳銃を奪うため公務中の警察官を襲ったものであるが、いずれも周到な準備をした上での計画的な犯行である。番号23、24の事案は、共犯者間で、被害者両名の殺害を含めて綿密に計画された事件であり、兇器の一部を携行して犯行に及び、一旦引き上げた後、再び犯行現場に戻り、死体から鍵を探し出し、さらに金庫を開けようとしている。

さらに、強盗殺人一件、殺人一件の事案についてみるに、番号1の事案は、被告人が強盗殺人罪により無期懲役刑を受け一八年間服役した後の犯行である。番号2の事案の殺人は、誘拐した上でのものであり、死体の遺棄もしている。番号5の事案の強盗殺人は強盗強姦未遂を伴っており、殺人では、被害女性の死体を凌辱し、遺棄している。番号10の事案の強盗殺人は、綿密、周到な計画と準備に基づく犯行であり、殺人は、被害女性の連れて来た幼児を罪跡隠蔽のため予定どおり殺害したものである。

このようにみてくると、所論の挙げる例は、個々の事件についてそれ以上の情状を比較するまでもなく、いずれも本件より犯情が悪質な事案とみることができ、審理をした当該裁判所において死刑が適用されたのはやむを得ないと思われる。

他方、検察官において死刑を求刑したが無期懲役刑に処された事案についてみるに、番号26の事案は、殺人については心神耗弱と認定されているが、各別の通行人に対する殺人と強盗殺人未遂、通りすがりの民家での強盗殺人である。番号27の事案は、強姦致傷、強盗、強盗強姦、強盗致傷等で合計二二年服役した被告人による実母と姪に対する強盗殺人と、その際の姪に対する強盗強姦である。番号28の事案は、計画的で兇器を携えての強盗殺人と、妻に対する殺人と死体遺棄である。番号29の事案は、実母に対する殺人と、これに引き続く実父に対する強盗殺人である。番号30の事案は、不要な手術をしたとして医師を殺害すべく兇器を携えて同人方へ侵入した殺人予備と、その際における医師の義母と妻に対する強盗殺人である。

以上によれば、番号1ないし25の事件において死刑が適用されているからといって、それとの権衡上、被告人についても極刑以外には考えられないとまではいえないように思われる。

一〇  まとめ

そこで、以上検討してきた諸事情を踏まえて本件の量刑を考察する。もとより死刑の適用は、慎重でなければならず、各般の情状をつぶさに検討し、その罪責が誠に重大であって、罪刑の権衡の見地からも、一般予防の見地からも、はたまた同種事案との権衡の観点からも、極刑がやむを得ないと認められる場合にはじめて死刑を選択すべきものである。

本件犯行は、前記第一で認定したとおりであり、被告人にとって不利な情状は、前記第二で指摘したとおりである。これに対し、被告人にとって有利な情状は、前記二、七、八、九で検察官の論旨について検討した中でみてきたとおりであるが、被告人が被害者両名に対する殺意を固めたのは、実行行為に着手する直前であって、あらかじめ強盗殺人を計画し周到な準備を整えた上での犯行ではないこと、被告人の生育歴の中には被告人の責に帰せられない不遇な面があり、それが本件犯行を犯すような性格、行動傾向を形成するについて影響していないとはいえないこと、被告人が犯行時二〇歳七か月で実社会における生活体験に乏しく、わずかの期間ではあるが犯行直前の良好な稼働状況や、いまだ不十分とはいえ反省悔悟の念も述べていることなどから、矯正教育による改善更生の可能性がないとはいえないこと、最近十数年間に死刑が宣告された事件と本件とを対比した場合、本件において死刑を宣告しなければ、死刑制度を存置する趣旨や、他の事件との権衡という意味における正義に反するとまではいえないことを指摘できる。

本件の犯情が悪質極まりないことは概ね検察官指摘のとおりであり、遺族らが極刑を望む気持ちはもとより当然のこととして理解できるが、なお他方には、右に指摘したような被告人にとって有利に働く事情もないではなく、以上の点をすべて総合して考察すると、本件については、極刑がやむを得ないと認めるべき場合には当たらないと解するのが相当である。

そうすると、検察官の死刑の求刑を容れず、被告人を無期懲役に処した原判決の量刑は維持するのが相当であって、これが軽過ぎて不当であるとはいえない。論旨は理由がない。

なお、原判決には、本件強盗殺人は二個成立するのにその処理をしていない点で法令適用の誤りがあるが、本件は結局一罪として処断すべき場合であるから、右の誤りは判決に影響を及ぼさない。

第四  結 論

よって、刑訴法三九六条により本件各控訴を棄却し、当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項ただし書により被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 佐藤文哉 裁判官 金山 薫 裁判官 若原正樹)

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